妙法の道ー賢者の探求

The Authentic Path - a wise search

(ゾクチェン・ラニャク・パトゥル・リンポチェの言葉より)

妙法とは何か?それは私たちの心にある薫習(思考のパターン)に対して対抗する薬である。なぜ私たちにこの薬が必要なのか?その薫習は私たちの苦しみの原因であり、苦しみそのものである。例えば、心の中に強い薫習がある時、身心は、痛みや、不快を感じる。そして、妙法とは助けになる唯一の手段である。助けを周りにあるものから求めるなら、例えば、アルコール、タバコ、遊び、日常生活、あるいは、友人、同僚、それら全部は私たちの助けにはならない。一時的な痛み止めにはなるだろうが、ある日、突然苦しみが新たに発生する。このような方法では、いつまで経っても苦しみの根まで辿りつかない。

一方、妙法を頼りにするなら、薫習に最も効果的な薬を使うということを意味する。そして、実際にこのように行動すると、心の中にあった痛みや不快などが、少しずつ弱っていくことに気が付く。 それらは全部真のダルマの効果的な治療法のおかげなのだ。それでは、真のダルマとは何なのか?それは智恵と慈愛・思いやりの心が一緒になったものである。智恵は苦しみの原因をつかんで、愛する優しさ・思いやりはそれを減滅する。その結果として出るのは妙心の本性だ。妙法の本性とはなにか?それは安らぎや大楽だ。苦しみがまったくなく、全く汚れておらず、自ずからの輝き、自ずからの目覚めである。各コップにある水の本然なる境地は同じである。それがゆえに汚い水を浄化して、飲める水にすることが出来る。キレイな水と汚い水の本質が異なっていたら、 汚い水は絶対にきれいな水にはなれない。水の本性、そのものは同じだからこそ、キレイにしたり、汚くしたりすることができる。

それでは、心の本性である真の「基盤」の法性と、その基盤の法性の悟りは同じであるということではない。なぜか?片方はもう既に顕現されてあり、もう一方はまだ顕現されていない。それはまるで磨かれていない金塊とすばらしいジュエリーになった金のようだ。両方とも金という材料自体は一致しているが、特質が異なっている。心が自分の真の本性を理解した後、薫習や「混入物」が全くなくなる。これは苦しみを越えた状態であり、根源なる智恵の顕れの例えである。輪廻界の苦しみである心のすべての顕れは真の本性、知恵の顕れの広い空間に変化する。これは完全なる自然なる、大なる虚空のような完全なリラックスなのだ。すべての現象はこうである、 そして、そのすべての現象に痛みや不快が全く存在しない大楽が伴なっていることを理解しなければならない。この見解を見付けるのは誰でもない私たちの心そのものなのだ。そして、理解される対象も私たちの心そのものなのだ。

グル・リンポチェが言った。「自分の心を見つめて!自分の心を見つめて!またもまたも自分の心を見つめて!」。

連続的に自分の心を見つめ続けるなら、菩提心である真の本性を見つけるだろう。菩提心以外の真実、菩提心以外の幸福、菩提心以外の仏は存在しない。そして菩提心を発見する時は真実、幸福、仏、そのすべてを私たちは得ることになる。

どのような身・口・意の善の行為でも、私たちを菩提心の理解に近づかせる。そしてまた逆に、菩提心の力によって、私たちの身・口・意による行為は力を付くはずだ。

法にも俗にも成功できなかった惨めな貧乏人の私にとってはこれが唯一の修行なのだ。  ・・・・センター 試訳